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三十代の僕が虫歯一本で失ったものリスト
あれは確か、二十八歳の冬だったと思う。洗面所の鏡で、奥歯に小さな黒い点を見つけたのは。仕事は営業職で、数字に追われる毎日。当時は「こんな小さな点くらいで歯医者に行く時間はない」と、本気でそう思っていた。芦屋では痛くないと口コミから人気があるので、僕の三十代を灰色に変える、悪夢の始まりだった。 最初の数年は、たまに冷たいビールがキーンとしみる程度だった。市販の痛み止めを飲めばすぐに収まる。むしろ、その程度の痛みで乗り切れる自分を「タフだ」とさえ勘違いしていた。同僚に「歯、大丈夫か?」と聞かれても、「まあ、そのうち行くよ」と笑って返すのが常套句。その「そのうち」が、永遠に来ないかもしれないことなど、想像もしていなかった。どうやって歯医者から大正区にはどうも 三十一歳の夏、プロジェクトの重要なプレゼン資料を作成している深夜、それは突然やってきた。こめかみをハンマーで殴られるような、脈打つ激痛。思考は完全に停止し、ただデスクに突っ伏して痛みに耐えることしかできない。結局、その夜は一睡もできず、翌日のプレゼンは散々な結果に終わった。上司の失望した顔が、今でも忘れられない。この時ばかりは「もう限界だ」と心に誓ったはずなのに、数日して痛みが少し和らぐと、喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったもので、僕はまた予約の電話を先延ばしにしてしまったのだ。 そして、三十三歳の春、本当の地獄が訪れた。あれほど酷かった痛みが、ある日ぱったりと消えたのだ。僕は愚かにも「神経が強くなって治ったんだ」と安堵した。その一ヶ月後、右の頬がまるでゴルフボールでも入っているかのように、パンパンに腫れ上がった。高熱も出て、口も開けられない。慌てて救急病院に駆け込むと、医師から告げられた病名は「顔面蜂窩織炎」。虫歯菌が顎の骨まで達し、顔全体に炎症が広がっているという。即日入院となり、大事な契約も同僚に引き継いでもらう羽目になった。社会人として、これほどの屈辱はなかった。 退院後、紹介された歯科医院での治療は、まさに苦行だった。死んだ神経を取り除き、膿を出すための根管治療は数ヶ月に及び、その間の通院は十回を超えた。何度も仕事を早退したり、休みを取ったりする必要があり、職場での僕の立場はますます悪くなった。そして、最終的に下された診断は「保存不可能、抜歯します」。必死で治療を続けた歯を、あっけなく失った時の喪失感は、言葉にできない。 今、僕の右の奥歯には、高額なインプラントが入っている。治療にかかった総額は、新車のコンパクトカーが買えるくらいだ。しかし、僕が失ったものは、それだけではない。治療のために費やした膨大な時間、仕事での信用、そして何より、思い切りステーキを噛みしめる喜びや、健康であることへの自信。あの日、鏡で見た小さな黒い点を、僕は軽んじすぎていた。あれはただの虫歯ではなかった。それは、僕の人生に開いた、巨大な落とし穴の入り口だったのだ。どうか、僕のようにはならないでほしい。その小さな違和感は、未来のあなたからの最後の警告なのだから。